Blog

21_21 DESIGN SIGHT「マル秘展」から深澤直人のプロトタイプを考える。試作品ではない、デザイン対象物のあるべき姿 ―原形― としてのプロトタイプ

2020.4.13


突然ですが、プロトタイプの定義はさまざまなものが存在しています。

機能や製造プロセスのテストに使用される本格的なプリプロダクションモデル
(Dieter et al. 2009 *1)

評価のために設計アイデアを客観視し具体化するもの
(Richard et al. 1992 *2)

アイデアの実験モデル
(Google)

製品の形や雰囲気を示すために使用されるもの
(Hyman 1998 *3)

その他多様な定義が存在しますが、おおよそ、自分やチームで認識しているものやことを形にして試す/テストする、というところは共通しています。あくまで最終成果物をつくる目的ではなく、そこに至るためのプロセス、つまり「試作品としての、プロセスのためのプロトタイプ」と言えるのではないでしょうか。

ただ、21_21 DESIGN SIGHT ギャラリー1&2での企画展「マル秘展 めったに見られないデザイナー達の原画」で展示されていた深澤直人のプロトタイプは、その定義から乖離していました。「試作品としての、プロセスのためのプロトタイプ」ではなく、ある種、最終成果物に比類するような美しさがあったのです。その理由を考えてみました。


㊙展での深澤直人のプロトタイプ1

㊙展での深澤直人のプロトタイプ2

㊙展での深澤直人のプロトタイプ3


「㊙展」では深澤直人がデザインした、アリババ傘下のブランド「生活分子」や、INFOBARなどの、プロトタイプと製品が展示されていました。そのプロトタイプの美しさ。製品と隣り合って並んでいるのにも関わらず、むしろ製品よりも美しく感じるプロトタイプ。他のデザイナーが展示物として展示されているプロトタイプは、最終成果物に至るまでの試行錯誤の過程として、あくまで制作過程としてのプロトタイプです。ただ、深澤直人のものだけが、プロトタイプがある種、最終成果物といえるほどの美しさを携えていました。その理由を探るために、深澤直人について少し書籍などをリサーチしました。

深澤直人は著書『デザインの輪郭』の中で、高浜虚子の『俳句への道』の「自分を打ち出すだけの句は醜い。主観を消し、淡々と描写してこそ人々の深い共感を呼ぶ」という記述に対して、以下のように言及しています。

自分の存在を消してしまう。消したからこそ沸き立ってくる美の存在があるということが衝撃だった。それからは、現象から導き出される、不確実でありながら湧き上がる共感を成すものが何であるかを深く考えるようになった。

この内容だけではなく、彼のデザインしたさまざまなプロダクトからも感じられるように、深澤直人のデザインした対象物は自らの存在感を誇示するのではなく、なくしていくことで屹立する美しさの価値が重視されているように感じられます。

さらに、2002年に開かれた展示「デザインの原形」展のカタログの中で、「デザインの原形」たるものについてこう述べています。

原形たるデザインからは、作者がその原形を探し出そうと試みる姿勢が見えてくる。それは作者自らの個性を表現しようとする意欲や取り組みの姿勢とは異なるものである。作者はその原形を探し当てた瞬間、同時にそれが長い年月でこれから存在していく生活の中の姿を俯瞰からとらえている。ものにだけ集中せず、周りとの関係をみている。原形の意味を知る者は、つくり出そうとするのではなく、生活の背景になり、人の行為にはまり込む必然を探し出そうとしている。

ここでは、デザインの原形という、デザインを行う対象物に本来的に潜む、周囲のものたちと調和した、あるべき姿を求めているように感じられます。

「㊙展」で展示していたプロトタイプは、まさに「デザインの原形」でした。周囲のものたちと調和した、デザインの対象物のあるべき姿の象徴。

ただ、それは一般的なプロトタイプの役割である「認識しているものやことを形にして試す/テストする」こととはまた違う意味があるように感じます。デザインする対象物のあるべき姿を環境から取り出し、ある種の最終形として提示しているようです。自分の認識しているものを形にして試す/テストしているという印象はありません。「この姿が最も環境と調和した最終形であり、あとはこれに近づけていく作業」というような。

ここで、自分の認識しているものではなく、あるべき姿を取り出すということをより理解するために、深澤直人がインタビューなどでたびたび言及している、心理学者のカール・ユングが提唱した「集合的無意識」について触れておきたいと思います。

ユングは著書『元型論』の中で、集合的無意識についてこう書いています。

無意識のいわば表面的な層は疑いなく個人的である。われわれはそれを個人的無意識と名付ける。しかしその下にはさらに深い層があり、この層はもはや個人的に経験され獲得されたものではなく、生得的なものである。このより深い層がいわゆる集合的無意識である。私がこの「集合的」という言葉を選んだのは、この無意識が個人的なものではなく、普遍的な性質を持っているからである。
集合的無意識とは、言い換えれば、あらゆる人間において自己同一的であり、それゆえ誰もが持っている心の普遍的な基礎であり、超個人的な性質を持ったものである。


集合的無意識を理解するためには、意識と無意識についても理解しておく必要があるため、以下に関係を図で示します。

このように、集合的無意識は個人的に獲得するものではなく、遺伝などにより生得的に持っているものであると述べられています。

この集合的無意識でデザイン対象物を利用者が感覚的に利用できるようなものが、デザイン対象物のあるべき姿、「デザインの原形」であり、理想の形です。それは、自分の認識外にある、集合的無意識で規定されているもののため、自分やチームが意識化で認識しているものを取り出すことでつくりだすことは困難です。ある種、高浜虚子の『俳句への道』での表現のように自分を消失させ、デザインする対象物のあるべき姿を環境から取り出す、という自分の認識の外にいくアプローチでしか、つくりだすことはできないと考えられます。

つまり深澤直人のプロトタイプは、「意識化にあるものを形にして、最終成果物に至るプロセスにあるプロトタイプ」ではなく、「集合的無意識化に潜んでいる、デザイン対象のあるべき姿を形にした、最終成果物としてのプロトタイプ」である。そして、彼のプロトタイプはデザイン対象物の最終成果物、つまりあるべき姿 ―原形― としてのプロトタイプであるがゆえに、製品よりも美しく見える、という現象が発生した、のではないかと考えています。




(*1) Dieter, G.E. and Schmidt, L.C. (2009) Engineering design, McGraw-Hill Higher Education.
(*2) Richard,M.,&Harold,H.,&Miller,J (1992) In search of the ideal prototype, CHI ‘92 Proceedings of the SIGCHI Conference on Human Factors in Computing Systems,577-579.
(*3) Hyman, B. (1998) Fundamentals of Engineering Design, Prentice Hall, Upper Saddle River, NJ.

Contact